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2012年12月4日火曜日

機は熟したり~教育の自由に憲法判断を~

累積加重処分取消訴訟 控訴人・被控訴人  近 藤 順 一


1,生徒にとって卒業式とは何か

 卒業式は、教育課程の特別活動(儀式的行事)に当たります。卒業生は学校生活のまとめとして家庭・学校・社会に思いを致し、また、在校生はそのような卒業生と共に過ごす最後の機会を体験します。自分と周りの関係を意識し考えること、つまり自我を確立していく重要な場面です。思想良心の形成過程にある生徒にとっては、他の生徒や教職員の影響は大きいのです。具体的に説明します。
 卒業式や入学式を考えてみると、生徒は個々にまた集団的に自らが主役として入場、卒業証書の受け取り等の行為を通して学びます。と同時に自らを含む会場全体、卒業生、在校生、教職員、来賓、保護者など、さらには式場の掲示・装飾などの全てを学習の対象とするのです。このように複合的な学習の場が設定されます。もちろん、通常各教室で行われる教科学習の場面でも、教科の内容と共に教員の振る舞いや他の生徒の態度などから影響を受けますが、卒業式のような特別な儀式では一つ一つの行為がより大きな意味をもちます。
 私の事案が発生した夜間中学では、圧倒的多数が外国人生徒でした。また、戦争体験のある日本人生徒の中にも、国旗(日の丸)に正対起立し、国歌(君が代)を斉唱することに違和感を持つ生徒がいました。ある生徒は語ります。
 「幸い私の兄は生還できたけど、近所の2~3歳上の人たちは赤紙1枚で召集され、ほとんど戦死してますからね。日の丸・君が代はやっぱり抵抗ありますね。好きな人はやればいいけど、嫌いな人まで強制するのはいけないことですよ。」(岩波書店『世界2009/9』より)

2,教員は、卒業式で何を指導するのか

 では、教員は卒業式で何をどのように指導するのでしょうか。
 まず、最高裁判決の宮川反対意見は式典を「生徒に対し直接に教育するという場を離れた場面」(2012年1月16日)としています。これは根本的な誤認です。一方、多数意見も「起立斉唱行為は、教員が日常担当する教科等や日常従事する事務の内容それ自体には含まれないもの」(2011年5月30日)として、式典での行為と教科指導等とを分離しています。同時に「全校生徒等の出席する重要な学校行事である卒業式等の式典」と規定しています。ここから、卒業式などの儀式的行事を教育の自由が機能する場面ではないかのような印象を与えています。上記でも述べましたように、卒業式は生徒にとっては複合的な学習の場であり、教員の指導は直接的であり、教員は自らの行為を示して指導するのです。卒業式は時として喜びや悲しみという感性をも伴ったものになる時さえあり、教員が生徒との直接の人格的接触を通じて指導するのです。教育の本質において、式典での指導と教科指導は何ら変わるところはありません。教員としては当然職務専念義務が科せられています。全体指導の場面でも個々の教員は傍観しているはずがありません。教員の職責は、価値の多元性を否定する圧力には従わないという不作為と価値の多元性を回復する作為義務であるとされています。
 また、学習指導要領の「国旗国歌条項」は、一律起立・斉唱を強制していません。それが法的意味をもつならば当然憲法・教育基本法に基づいています。少なくとも、各学校でどのように取り扱うかを協議し決める必要があります。その場合、生徒の状況や学校・地域の特色を考慮するのは当然です。テープを使用したり、個人の自由意思を尊重するのは合理的だと思います。
 学校教育法には「公正な判断力」(義務教育の目標)や「健全な批判力」(高等学校教育の目標)が規定されています。一律起立・斉唱だけを指導するならば、これらの目標を達成することはできません。

3,私が卒業式で、生徒に正対して不起立・不斉唱をした理由


 私の不起立・不斉唱は、処分を構えた強制下で多様性を保持し生徒に自ら考え行動する可能性を示したものです。卒業式実施要綱案の審議では、式次第から「国歌斉唱」を削除するよう提案しました。それは受け入れられず、後日、起立・斉唱を強制する職務命令が発せられました。私は、司会の「国歌斉唱」の声と同時に生徒に正対してスムーズに着席しました。校長もその「陳述書」で「卒業式における不起立による服務事故については、生徒や他の教師への働きかけ等はありませんでした」と述べているところです。副校長が「現認」のためとして近づいてきた時、「これは私の校務です。」と応じました。いつまでも黙っていると副校長が棒立ちの状態が続き、式に影響すると思ったからです。私の対応が式を「紊乱」させたとは考えられません。
 多様性、異なる考えや行動を認めることから学習は始まります。私の不起立・不斉唱は生徒に刺激を与え好奇心をもたせたかもしれません。教育はその場で糾さなければならないこともありますが、人格の形成過程を通して意味をもつこともあります。私は長期的に考える材料を提供したのです。

4,教育の自由侵害に憲法判断を請求する

 私は、33年の東京都の教員経歴の内17年間は夜間中学で主に日本語指導をしてきましたが、本来は社会科の教員です。社会科の取りあげる教材は、論争的課題、複数の見解が出されている問題が多くあります。例えば、歴史的分野では、先のアジア太平洋戦争が「アジア解放戦争」だったのか「アジア侵略戦争」だったのか、「従軍慰安婦」の強制はあったのかなかったのか、古代史でも邪馬台国はどこにあったのか等です。これらは各個人の歴史観と深く関わる問題であり、一つの見解だけを教えることはできません。少なくとも複数の見解があることを提示しなければなりません。シンボルとしての国旗・国歌、その本体である国家とどう関わるのかは真理の問題ではなく、信念の問題として各個人の人格形成に関わる問題です。
 最高裁判決は、起立・斉唱を「慣例上の儀礼的所作」とする一方で「敬意の表明を含む行為」としました。そして、「敬意の表明」をすることはできないと考える者がいることを認めました。1999年以来、日本国政府は「君が代」の「君」は天皇、「君が代」は日本国、歌詞全体は「日本国の末永い平和と繁栄を祈念」したものとの見解を採っています。これを児童・生徒の学習、教員の教授の視点から見れば、判決が言うように「敬意の表明」を拒否する考えがあり拒否する者がいる事実を、それを是とする考えと共に正確に提示する必要があります。これが正しい教育の出発です。一律起立・斉唱だけが正しいとして、教員に強制し生徒に示すことは一方的な教化です。
 これまで全ての処分事案を併合して一括審理・判決を請求してきました。それは、私の行為が一貫した教育実践であり、都教委「10・23通達」・八王子市通達・職務命令こそが学校教育への不当な介入を形成し、教授の自由を侵害し、学習の自由侵害を引き起こしていることを明らかにするためです。

「河原井さん・根津さんらの『君が代』解雇をさせない会ニュース NO.43」掲載
発行:2012年11月30日

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