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2011年3月5日土曜日

累積加重処分取消裁判を支援する会 ニュース(第20号)

証人採用2人のみ(近藤・齋藤校長)

第5回口頭弁論(証人尋問)

4/28(木)13時30分 地裁527号

 本日の進行協議において、裁判長は卒業生と研究者の証人申請を認めず、原告本人と職務命令発令校長のみの証人尋問となりました。全力を挙げて問題点を明らかにしていきたい。皆様の傍聴よろしくお願いします。
 下記の内容の陳述書を提出しました。アドバイスをお願いします。

陳 述 書(証人尋問に向けて)

目次
  1.  はじめに
  2.  教員となった経過
  3.  当初赴任した養護学校での思い出
  4.  昼間部の中学校の教員時代の思い出
  5.  夜間中学に勤務をはじめてからの思い出
  6.  2003年「10.23通達」発出以前の卒業式
  7.  「10.23通達」発出後、2004年3月の卒業式
  8.  2005年3月の卒業式
  9.  2006年3月の卒業式 初めての不起立(市教委の指導措置)
  10.  2007年3月の卒業式(戒告処分)
  11.  2008年3月の卒業式(減給10分の1・1カ月処分)
  12.  2009年3月の卒業式(減給10分の1・6カ月処分)
  13.  2010年3月の卒業式(停職1カ月処分)
  14.  私の不起立の思い
  15.  最後に裁判官の皆様に要請します


1 はじめに
 私は、東京都の公立学校の教員として33年間勤務し、最後の5年間、本件事案にかかわる5回の不起立・不斉唱により、被告都教委から4回の懲戒処分を受けてきました。この私の行動は職務の一環であり、もとより私の職務は「子どもとの直接の人格的接触を通して個性の伸長をはかる」ことです。教員には、制限されているとはいえ教授の自由があります。この教授の自由が都教委の「10・23通達」と校長の職務命令によって厳しく圧迫されました。
 私は,自分の学生生活を通じて,また長年の教員生活の中で,教師が,プロとして,子ども達の特性に合わせて,教育することが,子ども達の成長にとって必要であることを感じています。そこで,今回の処分の経緯とともに,私の体験についてもお話ししたいと思います。

2 教員となった経緯
私は,もともと子どもが好きだったこともあり,また,私が学校で学んだことを子ども達に伝えたいと言う思いで,大学卒業後しばらく講師を経験した後、1977年、東京都の教員になりました。
直接的な動機として、中学時代に出会った数学のF先生の影響があります。数学の授業では競争主義に対抗して集団活動を指導していました。放課後や土曜日には先生の自宅にうかがって遊んだり、社会問題について話したりしました。私たちは、高校に進学した後も周辺の高校生と高校生集会をもったりして交流していました。F先生は,特定の考えを教えるということはなく,いろいろな問題を自分で考えて意見を言い,みんなで話し合うことの大切さを教えてくれました。
去年香川に帰省した折、先生に会って当時のことを話しました。先生は、「あのころは本当に自由にやっていたな。」と笑っていました。
もし,先生が今の学校のように職務命令で縛られていたら,話し合いの楽しさや集会など何かを企画して作っていくことを教えてもらえただろうかと思います。その意味で,私は,改めて、教員の自由が子供に与える影響が大きいことを感じました。

3 当初赴任した養護学校での思い出
(1)東京都の教員になって最初に赴任したのは、養護学校です。現在の特別支援学校です。1977年から1982年まで2校経験しました。都立城南養護学校と都立清瀬養護学校です。
(2)城南では肢体不自由の生徒と学校中を駆け回る毎日でした。カリキュラムにはありませんが,言葉が出ないなど障がいを持っている子ども達とは,例えば手をつないでお散歩をするとか,校舎内やスクールバスの発着場でのかくれんぼに付き合うなどで,人間関係を作り,教育がやりやすくなることもありました。
(3)清瀬は、赴任したときに開設された学校で,1年目は数人でしたが,2年目からは東村山福祉園の児童・生徒がスクールバスで通ってきたので,生徒は200名以上に増え,しかも重度の障害を持ち,学齢期を過ぎたいわゆる過年児が多かったです。そのため,生徒の移動にも複数の教員が必要となったり,また,図工などではさみを使用したりするのにも監督する教員がたくさん必要となり,更には日常業務の中で腰痛をおこす教員が増えたりで,規定の教員数では,生徒の日常生活に支障が出たり,安全も守れないという状況になりました。そこで,私は,労働組合分会の責任者として連日、校長、組合本部、都教委と対応し,教員増員を要請し、二学期からの増員を実現し,生徒の生活や安全対策も改善しました。私はこの取り組みを通じて、子どもの学習権を保障するのは現場の教員の重要な役割であると強く感じました。

4 昼間部の中学校の教員時代の思い出
1982年に,世田谷区立駒沢中学校へ異動となり,1990年3月まで勤務しました。その後,1990年から1993年まで大田区立大森第十中学校に勤務しました。これらの勤務校では,通常の学級担任をし,社会科を担当していました。
 いわゆる“荒れる中学生”の時期で、駒沢中では、学校には来るけれど学校内外を徘徊、放浪する数人のグループがあり,学校間の生徒の暴力事件も頻発していました。当時この学校では、教員集団としてそのような生徒に向き合うということは困難で、個別に対応する教員をサポートするというよりは孤立させるような風潮がありました。そんな中で,暴力事件などを起こすグループの一人の生徒を担任した時、その子の行方不明だった母親が死体で見つかるという事件がありました。その時に私は、生徒の荒れた行動の裏に辛い生活を抱えていたことを知り、私の対応が表に出ている暴力への対処だけになっていて、子どもの心に向き合っていなかったことを感じました。他にも、受験をはじめ過酷な競争に投げ込まれ苛立ちを感じていた子ども達はたくさんいたと思います。そういう生徒に向き合っていくことができなかった背景には,公務に追われて時間的な余裕がなかったこともありますが、教員同士の中に自由に悩みを語り合って一緒に解決していこうという雰囲気がなかったことがあったと,今振り返ってみて思うのです。
 
5 夜間中学に勤務をはじめてからの思い出
(1)1993年4月から,私は足立区立第四中学校の夜間学級に勤務しました。大学で中国の歴史を勉強していたこともあり,かねてから,外国人生徒、特に中国残留孤児関係者が多く学んでいた夜間中学で教えることを希望していたためです。その後,1993年から1997年に足立区立第四中学校夜間学級,1997年から2004年に世田谷区立新星中学校夜間学級(現三宿中学校),2004年から2010年に八王子市立第五中学校夜間学級と,退職するまでずっと夜間中学に勤務しました。
(2)実際に勤務した夜間中学には、多くの外国人生徒が在籍し、特に、かつて大日本帝国が軍事侵攻したアジアの諸地域から来日した生徒が圧倒的多数を占めていました。その中には、中国残留孤児及びその2世3世の関係生徒もいました。
そういう生徒たちに社会科で歴史を教える中で、また、夜間中学校の教育実践の交流や教育方法の理論を研究する全国や東京都内の夜間中学校の研究会の中で、日本の戦争責任、戦後責任を突き付けられることもしばしばありました。
例えば、新星中学校の授業で南京事件が話題になった時、中国人の生徒の1人から「あなたたち日本人は南京事件の責任をどう考えているのか」と迫られたことがあります。私は、日本の加害者責任については考えていたつもりでしたが、改めて自分自身の責任を問われ言葉に詰まってしまいました。
また、八王子五中では、フィリピン人生徒の1人が、「私の親戚の者が戦争中に日本軍に殺された」と話し始め、レイテ島やモンテンルパなど戦争中の日本軍の残虐さを次々と話したこともありました。その生徒は、母国の学校教育や親の世代から教えられたのだと語っていました。
研究大会の時には、夜間中学では中国人の生徒が多くいることから、その理解のために、毎回、体験発表を聞く機会を設けています。その中では、中国の政治・文化についても学びましたが、根強い差別に基づく帰国後のいじめや言葉の問題などによる生活の困難等を聞きました。
このような体験を通じて、私は、日本に来ているアジアの方たちは、日本の戦争加害責任についてきちんと学んできていることを改めて認識し、アジアの国々の歴史や考えを理解し、また日本の戦争における加害者としての側面についてもきちんと学び自分なりの意見を持てるようにしなければならないと思い,意識して授業を行うようになりました。そうすることが、日本にいるアジアの人々への偏見をなくし、また、日本人の生徒が今後国際社会の中で誇りを持って生きていくための基礎となると思ったからです。
6 2003年「10.23通達」発出以前の卒業式
2003年に、いわゆる10.23通達が発出される以前の卒業式では、私が勤務していた学校では、「日の丸」はB4大の大きさのものが、舞台からみて、左サイドに掲げられており、「君が代」はテープが流されるだけで「斉唱」を強要されることはありませんでした。

7 10.23通達発出後、2004年3月の卒業式
私が当時勤務していた新星中学校では、2004年2月頃,「10.23通達」が配布され、職員会議では、卒業式の会場図が呈示されました。新星中学校は2004年4月に隣接する池尻中学校と合併することが決まっており、すでに校舎の改装作業がはじまっていて、卒業式も新しくできた多目的ホールで行うことになっていたので、その意味で従前とことなることは分かっていましたが、更に、国旗・区旗が舞台正面に掲げられ、国歌斉唱も明記されており、様相が全く変わっていました。私は、このような強制は間違いではないか,やめた方がいい,という趣旨の発言をしましたが、結局通達通りの卒業式が行われることになりました。私は、同僚の1人から「(国歌斉唱で)座ったら処分されるよ」と言われた記憶があります。おそらく高校の先生の不起立や処分の動きをみてそう思ったのでしょうが、私が勤務していた中学校では職務命令が出されることもなく、起立を強制する雰囲気もなかったので、私はあまり危機意識は持ちませんでした。
そして、2004年3月の卒業式は、正面に「国旗」と区旗が掲げられ、「国歌」は音楽講師によるピアノ伴奏による起立斉唱となりました。
私は、この時は起立しました。

8 2005年3月の卒業式
私は、2004年4月に八王子市立第五中学校に異動しました。
そして、これまでと同じように、2005年2月ころの職員会議で、卒業式の式次第や会場設営について議論がされました。やはり10.23通達やこれと全く同じ趣旨の八王子市の9.22通達ないし12.8通達通りの卒業式の内容でした。私は、これまでと同じように、国歌斉唱を削除してほしいなどと「日の丸・君が代」強制に反対する意見を述べました。これに対しては、校長から、都教委・市教委の指示だと言われました。
この年の卒業式は、式次第に国歌斉唱が入り、会場設営は,舞台正面に国旗・市旗を飾る、生徒の卒業制作は、飾る場所について議論になりましたが、結局通達通りにということで、舞台サイドに飾ることになりました。
私は、昨年の卒業式で国歌斉唱時の不起立で処分者が多数出たこと、中学校の教員も入っていたことを知り、今年は更に強制が明確になったと感じていたので、このまま黙って起立していてはますます強制がひどくなるのではないかと思い、不起立すべきではないかととても悩みましたが、最終的には起立しました。

9 2006年3月の卒業式 初めての不起立(市教委の指導措置)
(1) 卒業式についての職員会議の議論
2006年3月の卒業式についても、同年2月頃に、職員会議で式次第や会場設営について、職員会議で議論されました。
 私は、やはり、例年と同じように、強制に反対する意見を述べましたが、校長も昨年と同じように、上からの指示でやらなければならないと言いました。
この時、やはり生徒の卒業制作の場所が問題になりました。昨年までは会場内に飾られていたのに、この年の案では、会場の外に飾られることになっていたからです。せめて会場の後ろにという提案もなされましたが、結局却下されて、原案通り卒業制作は会場の外に飾られることになりました。その他は昨年同様でした。
(2) 卒業式での不起立とその思い
 10.23通達発出後初めての卒業式であった2004年3月には、私としてはそれほどの強制を感じていませんでした。
 しかし、新聞報道などで、2004年も2005年も卒業式で国歌斉唱で不起立をしたことで大量の教員が処分されたことを知り、実際には強制が行われていることを感じました。
 また、私が勤務していた学校でも、当初は簡単な話だけであったのが、実際に、生徒の卒業制作まで、職員会議で議論になっても、上からの指示、通達通りということで、強制的に、会場の外へ出されてしまうのをみて、このままでは、教育から自由が奪われてしまうという危機感を感じました。そして、職員会議で強制に反対する議論をしても実際には起立することによって強制を受け入れてしまっているということを後悔し、自由を抑圧されそれに抵抗できない教員が果たして生徒の前に立てるのか、という自責の念におそわれました。それでも本当に不起立するべきか悩みましたが、不起立で処分された教員を支援する集会などに参加して処分された教員の話しを伺ったり、ナチス支配下のドイツにおける抵抗運動の話を聞く中で、私は、このまま黙っていては、ますます強制が厳しくなり、教育から自由が奪われてしまう、これに反対する意思を表明したいと思い、不起立を決意しました。
 そして、2006年3月の卒業式で、はじめて、国歌斉唱の際に起立しませんでした。
(3)その後の処分の経過
不起立した当日、まず、校長から事情聴取がありました。現認はなく、最終的には周りにいた教員に確認したと思われます。その後、私は不起立、不斉唱したこと、あらゆる処分に反対する内容を広く知らせました。数日後、市の教育委員会から。3回ぐらい呼び出しがありました。聞かれた内容は職務命令の有無などで、明確にはなかったと思うと答えました。しかし不起立は間違いないという話をしました。
4月末頃,最終的に校長・副校長と一緒に市教委に呼ばれて,校長・副校長がまず教育長室で指導,その後石川教育長より,指導措置を受けました。通告を読み上げられたのでその文書をいただけきたいというと,指導措置なので,文書は渡さないと言われました。その後,教育長の説諭がありました。
通告の内容は,不起立が信用失墜行為だから今後同様のことがないように注意をするというもので、説諭も同じような内容でした。校長の指導を受けて服務に専念するようにとも言われ、職務命令が出たらそれに従えという意味ととらえました。
 後から校長から聞いたことですが、校長と副校長も,私と同じような指導措置を受けたそうです。
 校長が職務命令を出していなかったので、私が服務義務違反を問われなかった代わりに校長ら管理職も指導を受けることになったのではないかと思います。

10 2007年3月の卒業式(戒告処分)
(1) この年の卒業式も、2月頃に職員会議で式次第・会場設営について話し合われました。内容は、2006年と同様でした。
 私は、例年通り、日の丸・君が代の強制に反対する意見を述べましたが、原案通り決定しました。
 この年、校長は、はじめて、国歌斉唱時に起立斉唱するようにとの職務命令を出しました。
(2)私は、昨年通り、国歌斉唱時に、不起立・不斉唱をしました。
(3)その後、校長からの事情聴取、都教委の事情聴取が行われました。
都教委での事情聴取は、「服務事故について、事情を訊く」「メモを取ってはならない」とのことで、私は犯罪者扱いされていると感じました。
そこで、私は、一方的な事情聴取には応じられない、私の言動の証拠が都教委側にしか残らないようなやり方には応じられないと思い、所属・氏名の確認以外は、いっさい「ノーコメント」を通しました。
そして、3月30日に、戒告処分を受けました。
3月30日、東京都教育委員会は、私に対して「戒告」処分を発令しました。「処分理由」は、地方公務員法第32条」(法令等及び上司の職務上の命令に従う義務)違反、「卒業式の国歌斉唱の際、起立しなかった」ことが「全体の奉仕者たるにふさわしくない行為であって、教育公務員としての職を傷つけ、職全体の不名誉となるもの」(地公法33条違反)であると書かれていました。
自由やさまざまな意見が最も尊重されるべき教育の分野で、最も強烈な強制と懲戒が進行していることに強く抗議しました。

11 2008年3月の卒業式(減給10分の1・1か月)
(1) この年の卒業式も、2月頃に職員会議で式次第・会場設営について話し合われました。内容は、2006年と同様でした。
 私は、例年通り、日の丸・君が代の強制に反対する意見を述べましたが、原案通り決定しました。
 そして、2007年と同じように、校長は、国歌斉唱時に起立斉唱するようにとの職務命令を出しました。
(2) そして、私は、この年も、3月19日に行われた卒業式の国歌斉唱の時に、不起立・不斉唱をしました。
この年、私が座っていると、副校長から、「起立して斉唱してください」と言われました。これに対して私が「これは、自分の校務です。」と答えると、副校長から。「5時57分、現認」と言われました。
(3)同日、校長から事情聴取を受け、翌々日の21日に、八王子市教育委員会からの事情聴取を受け、25日に東京都教育委員会から事情聴取を受けました。私は、事情聴取では、昨年同様、一貫して、自分の身分、校務分掌に関すること以外は、ノーコメントを通しました。
そして、3月31日に、東京都教育委員会から、減給10分の1・1カ月の処分を受けました。その理由は、やはり昨年同様、「不起立」が地方公務員法32条(上司命令違反)、同33条(信用失墜・不名誉)というものでした。

12 2009年3月の卒業式(減給10分の1・6カ月処分)
(1)この年の卒業式も、2月頃に職員会議で式次第・会場設営について話し合われました。内容は、2006年と同様でした。
 私は、例年通り、日の丸・君が代の強制に反対する意見を述べましたが、原案通り決定しました。
 そして、校長は、3月11日の職員会議において、国歌斉唱時に起立斉唱するようにとの職務命令を出しました。
 更に、この年は、3月17日の卒業式の予行練習の当日に、私は、校長室に呼ばれて、個別に卒業式において起立するように指導を受けました。
 私は、更に強制が強まっていることを感じ、やはり起立することはできないと思いました。
(2) そして、3月19日の卒業式で、私は、やはり、国歌斉唱の時に、不起立・不斉唱をしました。
この時に、来賓として、八王子市教育委員会指導主事ともう1人保護者席後方に市教委の方が来ていました。私は、「服務事故」の監視のためだと思いました。
式冒頭で、起立したまま「国歌斉唱」となりました。私は、速やかに着席しました。副校長が私に近づいてきて起立・斉唱を命じましたが、私が起立しないのをみると、「午後6時7分現認」と宣告しました。私は「了解しました」と応じました。
(3)例年通り、当日、校長から事情聴取を受け、3月23日に八王子市教育委員会から、その後東京都教育委員会から事情聴取を受け、3月末に、減給10分の1、6ヶ月の処分を受けました。
私への処分は、年々加重され、この年は第3段階になっていました。処分理由を読み上げる担当官の手が小刻みに震えていたのを覚えています。処分は、書面を読み上げただけで、あっけなく発令式は終わりました。この発令には八王子市教委、校長が立ち会いました。

13 2010年3月の卒業式(停職1カ月処分)
(1)この年の卒業式も、2月頃に職員会議で式次第・会場設営について話し合われました。内容は、2006年と同様でした。
 私は、例年通り、日の丸・君が代の強制に反対する意見を述べましたが、原案通り決定しました。
 そして、校長は、職員会議において、国歌斉唱時に起立斉唱するようにとの職務命令を出しました。
(2)3月19日に行われた卒業式において、私は国歌斉唱の際に、不起立・不斉唱をしました。
 開式冒頭、起立「国歌斉唱」と共に、私は着席、不起立・不斉唱行為に入り生徒に正対しました。生徒の中には「あれ!」という感じが走りました。生徒の中にも斉唱していないものは多数いました。すぐさま副校長が近づいてきて「近藤先生、立ってください」と言いました。私は「現在、校務遂行中です。」と応じました。 副校長は「6時1分、現認しました。」と言ったので、私は「了解しました。」と応えました。私が不起立をしたことで、式が滞るということも、雰囲気が壊れることもありませんでした。
(3) そして、例年通り、卒業式当日に校長から事情聴取を受けました。この時、私は「学習指導要領や文部科学省の解説にも、<起立すること>は提示されていない、生徒に異なる考え、異なる行動を示すことこそ校務である。」と述べました。校長はこれには直接答えず「職務命令違反で報告する。」と通告しました。
その後、八王子市教育委員会、続いて東京都教育委員会からの事情聴取を受けたことも例年通りでした。
3月30日に、校長室にて東京都教育委員会の担当者から、校長の立ち会いの下、停職1月の処分でした。
私は、今年度で退職になるので、「停職1月ということは、3月31日で退職するがそのまま退職になだれ込むことになるのか、それとも、4月30日までは身分が保証されることになるのか。」と質問すると、「それは前者だ。」との回答でした。つまり、最後の1日だけの停職となりました。

14 私の不起立の思い
(1)まず、「日の丸・君が代」について、1999年に国旗・国歌法が成立しているとしても、これは決して価値中立的ではなく、否定的考えや国旗・国歌とすることに異論がある課題だと思います。それは、法律が成立しているかどうか、多数が認めているかどうかの問題ではありません。また、オリンピックなどで日本選手団の団旗として使用されていることとは別の問題です。私にとってそのことは書物上のことではなく、特に外国人生徒との出会いから強く感じます。彼らにとって、「日の丸・君が代」は自国のシンボルではないのです。八王子五中での国旗・国歌の授業実践については、2008年に文部科学省に提出した報告書で展開しました。それぞれの自国の国旗についてどんな意味があるのかを調べてきて発表させました。ラオスとフィリピンの生徒は、国土や自然を表すと同時に、独立のための戦いを象徴していることを発表しました。私はお互いの人間を尊重し敬意を示すことを指導してきました。
「日の丸・君が代」が戦前の我が国の軍国主義や侵略戦争のシンボルとしての役割を果たしたことは事実であり、そのために拒否反応など異なる見方があるのは当然です。また、歴史的な評価と共に、現在の国家統制、世界有数の軍事力・海外派兵にまで至った情況と「日の丸・君が代」の強制がリンクされていることこそ重大であると思います。イラクへの自衛隊派遣には「日の丸・君が代」が利用されました。
(2)そして、その論争的課題を学校教育に持ち込むこと、しかも、儀式という議論を起こしにくい場面に持ち込むことには重大な問題があります。私は、「日の丸・君が代」を教材としてその歴史や現状について多様な意見があることを取り上げ、議論する必要があると思っています。タブー視するつもりはありません。しかし、このような論争的課題を学校教育の場で取り上げるときには、特に学習者の自由な意見が保障される学習の自由や、それを受け止める教員の教授の自由が厳密に保障されなければなりません。「子供と教師の直接の人格的接触」の場面でどちらかの自由が抑圧されればもう一方の自由も失われます。
(3)また、“一律の起立・斉唱によって国旗・国歌に対する正しい認識を持たせ、尊重する態度を育てる”ことは明らかに一定の価値観の導入だと思います。学習指導要領には、起立は示されていません。外交的儀式の時の慣例といっても、国旗・国歌に対する一律起立・斉唱として学校教育の現場に持ち込まれるのは決して一般的ではありません。
卒業式は都教委も言うように“給料が支払われ、職務専念義務が課されている勤務時間中の公務”であります。しかも、生徒に対する教育実践の場です。従って、一律起立・斉唱の強制下で制限され抑圧された中でも、教授の自由を発揮する教育実践は、多様な考え多様な行動を示すため、生徒に正対して不起立・不斉唱を敢行するしかなかったのです。最後の不起立では、これまでの不起立の中でも最も生徒の顔をしっかりと見ることができました。
(4)ここであらためて、私の不起立・不斉唱の意味をまとめて提示します。

<教員としての3つの拒否>
1,教育課程への強制を拒否する。
都教委―(市区町村教委)-校長が一体となった強制の違憲、違法性を明確にする。「10.23通達」は教育内容への規制であり、教職員の一挙手一投足を縛るもの。教員の教授の自由、学校の自主性を踏みにじるものであり、現在進められている「道徳教育」「愛国心教育」の強制に道を開く。
2,国家忠誠の表明を拒否する。
いかなる法、学習指導要領、文科省解説にも“起立”は示されていない。国旗・国歌法成立時の政府見解では“君”は天皇、“君が代”は我が国、その歌詞は我が国の末永い繁栄と平和を祈念、とされている。起立か不起立かは「日の丸・君が代」への賛意か不賛意かを示すのではなく、国家忠誠表明の強制を受忍しているかどうかを示すことになる。
3,プロトコル(国際儀礼)の強要を拒否する。
強制と尊重、強制と一般的敬意、学校教育での強制とオリンピック等での慣習とは異なる。儀礼の強要は国際的信用を失う。

  <児童・生徒への3つの提示>
1,教員としての存立の精神的・肉体的危機即ち急迫不正の圧迫に対する正当防衛行為は認められるべき。不起立・不斉唱によって児童・生徒に非暴力・不服従の意味を教えることは重要な政治的教養の獲得として尊重されるべきである。(教育基本法14条)
2,学習の自由、教授の自由を保持すること、異なる考え異なる行動の存在を承認することによって学習は始まる。そして、自由権(思想良心の自由・宗教の自由)、社会権(教育の自由)などの基本的人権を尊重することの意義を示す。
3,「愛国心」「天皇制」「国家・国旗・国歌」「国際儀礼」等を学ぶきっかけとなり、個性の尊重、多文化共生への学習を進める。国家や行政権力の意向を無条件に受け入れるのではなく、それを相対化し多面的に検討する方向を示す。なぜ、処分を構えた強制下でも不起立・不斉唱を実行するのかを問いかける。
(5)私の一家は「満州国」(中国では偽満という)「奉天」(現在の沈陽)からの引揚者です。父は植民地経営の国策会社「満鉄」の職員でした。父母、姉、兄は1946年、難民としてコロ島から引き揚げてきました。両親から聞く昔話は、中国での幸せな生活と戦争に負けて帰国するときの大変さ、何もかも失った恨みごとが多かったです。
このような背景のある家族の中で育ったので、もともと中国に関心があったのですが、中学、高校時代と歴史を学ぶうちに、日本の侵略者としての側面を知り、これに両親も加担していたのではないかと思うようになり、父母へ反発するとともに、より深く学ぼうと、大学は中国の歴史専攻し、学んだことを伝えたいと教師の道を選びました。
そして、教員となり、特に夜間中学で、日本がかつて侵略したアジアの人々と関わる中で、日本人が国際社会の中で生きて行くには、日本の戦争被害者としての側面とともに加害者としての側面もきちんと認識し自分なりの考えを持てるように教育することが必要だと思いました。その時には、日の丸・君が代が戦争に利用されたことを教え、現在でも日本が侵略したアジアの国々の人たちの中にも、日本人の中にも、戦争の象徴であり敬意を表することができない人たちがいることも教える必要があると思いました。このようにいろいろな議論がある日の丸・君が代を儀式に用いるときには慎重な議論が必要であると思うのに、東京都教育委員会や八王子市教育委員会が校長に職務命令を出させ、教員がそれに違反すれば処分するというやり方で教育の現場で強制する、このことは許せないと思っています。
 また、私は教師として、普通級だけでなく、養護学校や夜間中学にも赴任し、境遇も能力も考え方も様々な生徒に関わってきました。その中で、教える内容も教え方も、同じ中学校という場であっても、全く変わってくること、教師の教育の自由の大切さも実感しました。
 私は、2006年から連続して5回卒業式で不起立・不斉唱をし、2007年から4回連続で処分され、その処分は戒告、減給1月、6月、定職1ヶ月と年々加重されました。33年間の東京都の教員としての最後の1日が出勤停止となりました。
私が教職員として処分されたのは、この不起立のみです。他の職務命令にはきちんと従ってきましたし、非行を行ったこともありません。
 その私がこれだけの処分を受けても、職務命令に違反したのは、上述したような、私の生立ちだけでなく、教師としての体験から、日の丸君が代を強制することは許せない、教育の自由を守りたいという思いからです。

15 最後に裁判官の皆様に要請します。
私は、5回の不起立・不斉唱を行い4回の累積加重処分を受け、そのすべての事案を併合して審理をお願いしています。
これまで述べてきたように、「10・23通達」が発せられた当初は明確な意志表示ができませんでした。動揺し自信を喪失し、自己嫌悪にさえ陥りました。何をするにも気力が伴わず、街中を徘徊するありさまでした。こんな無気力状態ではこれ以上仕事を続けられないかもしれないと思い、自分の意志に正直に行動することにしました。私はもう退職しましたが、このような忸怩たる思いをしている教員が少なからずいるのではないかと思います。
自分を律することを学ばなければならないにしても、教育は自由を基本とするべきだと思います。私の不起立・不斉唱は、自分の思想、良心から強制を拒否すると同時に、異なる考え異なる行動を示す教育実践の意味があります。従って、この間、累積加重処分が予測されても不起立・不斉唱の行動を変えることはなく、最後には停職処分にまで至りました。つまり、日常の教育活動と連続したものであります。そのような連続したものとして審理していただければ幸いです。
道理からも、そして実感としても、一律起立・斉唱を強制する都教委「10・23通達」と校長の「職務命令」、そして処分は不当なものです。ぜひ公正な審理に基づいて、違憲、違法の判決を出してください。

以上

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