「国旗(日の丸)・国歌(君が代)」は、なぜ、
学校教育の場で問題とされるのか
学校教育の場で問題とされるのか
2012/10/17
累積加重処分取消裁判 控訴人 近藤順一
累積加重処分取消裁判 控訴人 近藤順一
2003年、東京都教育委員会は「10・23通達」を発し、その後すべての都立学校において、校長より各教職員に対し、卒業式・入学式等において指定された席で日の丸に向かって起立し、君が代を斉唱するという内容の職務命令が出されるようになりました。
通達直後の卒業式・入学式等では、多くの教職員が通達及び職務命令に違反したとして、懲戒処分や嘱託再雇用拒否等の不利益処分を受けました。その後も毎年、懲戒などの被処分者が出ています。私もその一人です。その後、被処分者である私を原告とし、処分者である東京都教育委員会を被告として東京地裁に訴えました。
ここでは、学校教育の問題としての「日の丸・君が代」強制問題から、今日の教育のあり方について考えていきます。
私の累積加重処分と処分取消訴訟の経過
東京都教育委員会が2003年「10・23通達」を発出し、式典での一律起立・斉唱を実施して以来の経過を示す。
① 2007/3 卒業式で不起立・不斉唱・・戒告処分
② 2008/3 卒業式で不起立・不斉唱・・減給1月
③ 2009/3 卒業式で不起立・不斉唱・・減給6月
④ 2010/3 卒業式で不起立・不斉唱・・停職1月
原告:被処分者 近藤、被告:処分者 東京都教育委員会
2010.10.8 ①②③④について併合決定(東京地裁にて一括審理)
*2012年4/19地裁判決:「国旗(日の丸)・国歌(君が代)」一律起立斉唱は合憲合法により①是認、裁量権逸脱濫用により②③④を取り消す
*2012年10/15現在、双方が控訴し二審高裁にて審理中
一律起立斉唱以外の思考・行動はダメなのか
まず、学校教育の問題として考えてみます。
この問題は、数学の公式や“8時30分登校”等の生活ルールを守る問題とは異なります。「日の丸・君が代」は各個人の価値観、人格形成に直接関わる課題です。シンボル「日の丸・君が代」にはその本体である日本国があり、それ自体の歴史があります。学校教育において、内心を決定づける徳育内容の思考・行動を一つに限って教化してよいはずはありません。それよりも、多様な考えを出し合い、それぞれが自分の方向性を追求することが重要です。どうしても式典(入学式や卒業式等)に導入するのなら、「起立・斉唱」「不起立・斉唱」「起立・不斉唱」「不起立・不斉唱」もありにしなければなりません。そして、どの行為も尊重される必要があります。よく聞かれる疑問に、“反対教員こそ、子どもに自分たちの思想をおしつけているのではないか”というものがあります。“反体制の権力”なる考えからかもしれませんが、まったくの見当違いです。「日の丸・君が代」大好き者も、そうでない者も、受け入れられる必要があるのです。それが民主主義制度のグローバルスタンダードです。
また、スポーツイベント等において多くの観衆が「君が代」を歌い「日の丸」を応援旗としていることをもって、“尊重合意”が決定づけられているという考えがありますが、オリンピック等では基本的に選手のプレーに対する激励です。まして、競技場における非強制下での事情と学校教育の強制現場を故意に混同してはいけません。さらに、企業の経営方針や議会の多数決で決定される「日の丸・君が代」の扱いと、学校教育が異なることも、さきの人格形成と関係します。
一律起立・斉唱が強制されている卒業式・入学式等で、不起立・不斉唱・不伴奏がなかったとしたらどうでしょうか。このような意見の異なる問題が存在しているにもかかわらず、一律起立・斉唱という見かけ上の“清一色”では、教育実践の条件としては不十分です。「厳粛で清新な雰囲気」だけではなく、不起立・不斉唱・不伴奏は児童・生徒に対立・衝撃・葛藤を引き起こすかもしれませんが、子どもはすべての式参列者の言動と丸ごとの式場、学校すべてから学ぶのです。
教師の「職責」は、「価値の多元性を否定する教育活動には関わらないという不作為義務と、価値の多元性を回復する教育活動を行うという作為義務の二つ」(藤田英典編『誰のための「教育再生」か』)であると言われています。不起立・不斉唱・不伴奏は教育の「本質的要請」から見ても「規律違反」「非違行為」ではなく、必要な教育的行為です。教職員にとっては、職務専念義務が科せられている中での原則的・抑制的・初歩的な校務遂行です。この問題が、教育界で突出していること自体が、社会の未来に関わる事柄であることを示しています。これまでの最高裁判決はそのことを如実に示しています。
最高裁判決は何を語っているか
去年から今年にかけて最高裁判決がありました。
「日の丸・君が代」に対する起立・斉唱は、「慣例上の儀礼的所作」であるから思想良心の自由・信教の自由を直接的に侵害しない、「敬意の表明」を拒否する者にとっては間接的な制約となるが、これも学校行事(儀式的行事)における必要性、合理性から容認される。ただ、秩序を乱さない不起立・不斉唱のみで減給以上の懲戒処分を科すことには「慎重な考慮」が必要である、というものです。
最高裁は、一律・起立斉唱が「国旗国歌に対する敬意の表明」であることは認めました。1999年「国旗国歌法」を審議する国会で、「君が代」の「君」は天皇、「君が代」とは日本国、歌詞全体は日本国の「末永い繁栄と平和を祈念したもの」とされ、これが小渕内閣により政府見解となり今日まで変更されていない。そうすれば「敬意の表明」の核心は「天皇賛美と国家忠誠」とならないのか。学校教育の名の下に、公務員である教職員に何をさせようとしているのか。そして、子どもにどんな内容を身につけさせようとしているのか、透けて見えてきます。
かつては「自存自衛」「アジア解放」が叫ばれ、いま「国益」「国際貢献」が国民的目標とされ、それらを貫く精神的支柱・動員の具として「日の丸・君が代」が浮上しています。もちろん、「天皇賛美」「国家忠誠」「国益」「国際貢献」などこそ議論の対象ではないだろうか。最高裁は憲法23条(学問の自由)、26条(教育を受ける権利及び義務教育)について独自に判断を示していないが、結局、教育のありかたに回帰するではないでしょうか。
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