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2011年5月17日火曜日

累積加重処分取消裁判を支援する会 ニュース(第33号)

論点、争点、キーポイント(結審に向けて 4)

教育は、即効性だけか? 
口頭弁論(4/28)の反対尋問で次のようなやり取りがあった。
都教委代理人弁護士:不起立はどのような意味があるのか。
近藤:教育指導によって直ちに正さなくてはならないものはもちろんあるが、そのような即効性だけでなく、10年先に生徒の成長過程で意味をもつものもあると思う。


 都教委「通達」・市教委「通達」・校長「職務命令」は、「日の丸・君が代」一律起立・斉唱によって「国旗、国歌への敬意・儀礼」「国家への忠誠」「国を愛する心」を教えるという。そこから、それを教えない不起立・不斉唱は「児童・生徒の学習権を侵害するものだ」という。また、学習指導要領の「国旗を掲揚し国歌を斉唱するよう指導するものとする」が持ち出される。
 私は、教育の本質的営みには、学習の自由と教授の自由が前提とされなければならないと考える。教授の自由はもとより厳しく制限されているし、「通達」「職務命令」により強烈に圧迫される。残された自由の唯一の発揮は不起立・不斉唱によって強制を拒否しその姿を見せることであった。後は生徒の現在と将来の判断に任すだけ。

 かつて、教育実習生「樺美智子先生」も目前と長期で悩んだ。死の前年1959年秋、公立中学校で教育実習を行っている。
 「先生方の評によれば『大分不良がかっている』二人の女生徒がいた。私は注意していて、運動会の練習をサボっている二人を見つけて親しくなり、ついに、いつもサボっている掃除も一緒にするところまでいったが、二週間で離れることを考えると、それ以上内面的につながりを深めることは躊躇せざるを得なかった。・・私はやはり、生徒と親しくなり過ぎないようにしたのは正しかったと思う。」(『人しれず微笑まん 樺美智子遺稿集』より)
 また、ある生徒からは厳しい指摘も受ける。「社会科の授業は大変わかりやすく説明して下さるのでよかったです。私達のH・Rをやって下さいましたが、皆がさわいでいる時はすこしおこって下さればよかったと思います。」(同上)
 運動会に参加「指導」している時の写真からうかがえる真剣そのものの姿はきっと生徒に通じたことだろう。そして「歴史を教えるのはきっと、おもしろいだろうと思って実習に行ったのだが実際は予想していたよりも、もっとおもしろかったということを、はっきり言える。」(同上)と結論付けている。

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**会員・読者の声**

君が代斉唱・日の丸掲揚強制と私たちの生き方(2)
 山田昭次

 戦後に早くも1950年10月17日に文部大臣天野貞佑は、祝日の君が代斉唱・日の丸掲揚を復活するように全国の教育委員会や大学に通達した。その狙いは何か。彼の発言によると、この狙いの対象は大学生や知識人ではなく小学生であり、「この国のために働くんだ、というようなことをだんだん教え込みたいですね。何も理屈じゃなくて感覚的にそういう気持ちを持たせたいので、それには旗とか歌というものが是非必要」と言った(天野貞佑「君が代・日の丸・修身科―現代日本人の課題」『読売評論』1951年1月号。下線は山田)
 東京都教育委員会は、校長が卒業証書を同じフロアで渡す形式から高い演台に立って渡す形式に変更させ、かつ「入学式、卒業式等における教職員の服装は、厳粛かつ清新な雰囲気の中で行われる式典にふさわしいものとする」と、2003年に命じた。これは入学式、卒業式を権威主義的で厳粛なものにすることによって、君が代・日の丸に象徴される日本国家が神聖不可侵のものという印象を児童や生徒に与える演出効果を狙ったものであろう。「感覚的にそういう気持ちを持たせたい」という天野の発想は継承されている。
 君が代斉唱・日の丸掲揚の強制は、私たちが近・現代日本国家が歩んできた歴史を厳密に検証し、これとどのように対峙して生きていくのかという課題を厳しくつきつけている。

次回口頭弁論(結審)7/11(月)13:30~     527号
最終準備書面の提出・原告本人の最終陳述

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