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2011年5月10日火曜日

累積加重処分取消裁判を支援する会 ニュース(第32号)

論点、争点、キーポイント(結審に向けて 3)

不起立・不斉唱は「コウム」か? ~続~

 口頭弁論(4/28)の反対尋問で次のようなやり取りがあった。
都教委代理人弁護士:卒業式の時、一番近くの生徒とはどのくらい離れていたか。
近藤:1メートル前後です。
都教委代理人弁護士:生徒からあなたの不起立は見えたか。
近藤:はっきり見えたと思います。
 私の不起立は、生徒に自らの考えに従って行動してよいというメッセージを送るものでした。前号に続きローカルな話になりますが、〈国歌斉唱〉に続いて〈校歌斉唱〉ですから私は起立して歌います。生徒に正対しての起立―不起立―起立という一連の動作は目立ちます。ところで八王子五中の校歌はなかなか素晴らしいものです。
 高き知性の かがやけば 自由の道の はてもなし
 見ずや個性の おのずから 薫りも色も 新たなり
 友よしたしく 手をとりて 世界の前に 進むべし 
         (土岐善麿 作詞  信時潔 作曲 「学事報告」より)

 私は勝手に、リベラリズム、パーソナリティ、インターナショナリズムを励ますものと解釈しています。土岐・信時のコンビでは、『われらの日本』(新憲法施行記念国民歌)が創作。1947.5.3のこと。
 平和のひかり 天に満ち
正義のちから 地にわくや 
われら自由の 民として
新たなる日を 望みつつ
世界の前に 今ぞ起つ   (古関彰一『新憲法の誕生』より)

 記念式典に天皇は出席せず、君が代ではなくこの歌が歌われたそうだ。国歌はもちろん、校歌にしろ国民歌にしろ強制はダメですが、その意味、意義を批判的に検討し深く理解することは重要だと考えています。このことが裁判官に伝わったでしょうか、心配です。

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**会員・読者の声**

君が代斉唱・日の丸掲揚強制と私たちの生き方(1)
 山田昭次

 1923年9月1日に関東大震災が起こると、日本人民衆の多数派は朝鮮人が暴動を起こしたという官憲が流した情報を「お上の言うことに間違いない」と信じリンク、「お国のために」と自警団に参加し、刀、竹槍、こん棒などを使って無辜の朝鮮人たちを虐殺した。劇作家の秋田雨雀は、こうした民衆の行動は国家が教育してきた「国民道徳」の発露であり、それは「親切、無邪気、相互扶助的な精神さえも、それは全く自己の民族にのみ限られたものであって、一歩利害を異にした民族に対しては、あらゆる残虐、無残な行為を生んでくる」ものだと批判して、「国民道徳」からの解放を訴えた(「民族解放の道徳」、『読売新聞』1923年11月26日)。私がこうした秋田の言葉を思い出す所以は、君が代斉唱・日の丸掲揚の強制を伴う現在の入学式や卒業式の儀式は、民衆の国家との感覚的・情緒的一体化を通じて、戦後民主主義運動によって後退しかかった「国民道徳」の再強化を目指していると見るからである。(この論考は『ほっととーく100号』に掲載されたものですが、先生の了解を得て再録します。)

次回口頭弁論(結審)7/11(月)13:30~
527号 最終準備書面の提出・原告本人の最終陳述

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