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2011年4月30日土曜日

累積加重処分取消裁判を支援する会 ニュース(第29号)

傍聴、ご支援に感謝します

 昨日(4・28)、東京地裁民事19部(青野裁判長)において口頭弁論が開かれ、処分時の校長と原告本人の証人尋問が行われました。527号法廷は、ほぼ満席となりました。遠くから傍聴に駆けつけてくださった皆様に心から感謝いたします。また、証人尋問を控えて多くの方からアドバイスをいただきました。一人原告の私にとっては心強い限りでした。〈一人で闘っているんじゃない〉と思いました。
 尋問の中で校長は“サッカーの国際試合でもお互いの国歌を歌い国旗を掲げるように、学校の儀式でも国旗を掲揚し国歌を歌う”との趣旨の証言をし、原告側弁護士の「夜間中学には外国籍生徒が在籍しているがそれらの国旗を掲げ国歌を歌うのか。」との問いには「そうではない。」と答えた。混同、混乱、不条理も甚だしい。
 私の方は、不起立・不斉唱の教育実践的意義を中心に語りました。傍聴した渡部様が次のコメントを発信してくれました。

 近藤さんは「不起立」の理由について、S校長側の弁護士に答え、
「最初は強制に対する抵抗の気持ちが強かったが、次第に生徒への教育を重要と考え、職務上、
不起立の姿を明確に生徒に見せ、違う意見もあることを認識させたいと思った」と堂々と述べました。また、裁判長に対しては、「現場のプロとして、危機意識をもったら、発信しなければならない。一律起立斉唱することがまっとうな教育なのか、異なった判断を示すことが正しいのか、憲法・基本法に基づき判断してほしい」と述べました。

 反対尋問が終了した後、裁判官から「パネル(卒業制作)が移動される過程で議論はあったのか。」との問いがあり、私は「パネルが可能な限り生徒・参列者から見えるようにすることを議論した。」と述べた。さらに裁判長から「夜間中学では主に何を教えていたか。」「不起立・不斉唱以外に授業等で生徒に国旗・国歌について式の時どうするかなどを話したことはあるか。」「コウムとは、公務か校務か。」の尋問があった。私はそれぞれ「日本語を教えていた。」「特にない。」「校務である。」と答えた。

次回口頭弁論(結審)7/11(月)13:30~ 527号  
最終準備書面の提出・原告本人の最終陳述


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2011年4月24日日曜日

累積加重処分取消裁判を支援する会 ニュース(第28号)

証人尋問に向けて(八)
焦点浮上(強制継続=>連続不起立=>累積加重処分)

「日の丸・君が代」連続不起立を敵視する判決

 4/18、東京地裁民事36部(渡邊裁判長)は原告請求を棄却する不当判決を出した。この事件は、卒業式における国歌斉唱時の不起立による戒告処分と非常勤講師合格取消に対して起こされた訴訟である。戒告処分取消請求に対しては、「内心」と「外部行為」の分離、「公務員は、全体の奉仕者」、「上司の職務上の命令に忠実に従わなければならない」等通り一遍の理由で棄却した。
 さらに判決は、非常勤講師合格取消の理由として「新年度の入学式や翌年の卒業式においてもさらに繰り返される可能性も高いこと、・・自らの不起立行為についても、懲戒処分や東京都公立学校非常勤教員制度に係る合格が取り消される可能性を認識しつつ、敢えて実行したと認められる」と述べている。学校現場に強制が続く限り、児童・生徒がそれにさらされる限り、不服従の抵抗を継続するのは当然である。不起立は一過性ではない。被告都教委だけでなく、不当判決を出す裁判所もまたこの連続不起立を敵視している。

校長の陳述書―「国を誇りに思う心」「恥ずかしくないマナー」のために職務命令を出した

 証人尋問に立つ予定の校長は「東京都教育委員会では、近藤教諭に対し服務事故再発防止の研修を設けたり、私からも指導したにもかかわらず不起立を続けたことは、残念であり、公務員としての資質が問われる」と述べている。ここでも「不起立を続けたこと」が攻撃の的になっている。私の場合、一律の起立斉唱ではなく、異なる考え異なる行動を示すために、外国人生徒を含めて学習の自由を大切にすること自体を学ぶために毎年の不起立・不斉唱を実行した。

口頭弁論[原告本人尋問] 傍聴よろしく
4/28(木)13時30分 地裁527号

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2011年4月13日水曜日

累積加重処分取消裁判を支援する会ニュース (第27号)

証人尋問に向けて(七)

象徴天皇制国家のシンボル(日の丸・君が代)を強制する「公立学校の教育現場」とは?

 3・25停職判決(東京高裁・加藤裁判長)が前提としている社会認識は、以下の部分である。
「戦後半世紀以上にわたり、憲法の精神に従った民主的で文化的な国家建設が行われ、個人の精神を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するところの普遍的かつ個性豊かな文化の創造を目指す教育が実践されてきており、現代において、皇国思想や軍国主義的又は極端な国家主義的傾向又はそのような価値観を一方的に押しつける教育は少なくとも公立学校の教育現場には存在しないと解される。」(判決文 P23)
 これが、現教育基本法の前文冒頭「我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家」と同一の調子であることは前に指摘した。そして、この上記判決文の後半部分は事実を転倒させている。現在の日本国が「民主的で文化的な国家」であるかどうかを最近読んだ二つの文から考えた。以下に示す。
 「佐高 学校の先生は往々にして、憲法があることが当たり前と思っている。でも日本の会社には憲法なんてないんですよ。『憲法番外地』と私は言っていますが、その番外地が日本の八割以上を占めているわけです。・・一応、学校とか家庭には憲法がいくらか入ってきたけど、それが会社に入ることは一切なかったんですね。」(土肥信雄『それは、密告からはじまった校長VS東京都教育委員会』)
 「『あいまいな日本』とは日本人という主体が、この国の現状と将来において、はっきりした一つの決定・選択をしていない。・・なによりそれは、過去についての国の誤ちをはっきりさせないままでいる。その国の人間として、責任をとらずにいる、という状態です。」(大江健三郎「私らは犠牲者に見つめられている」『世界 2011・5』)

~ 石原都知事「今までと同じようにやる」~

 佐高氏が言うように、「憲法番外地」の「会社」目線から「学校現場」を見れば、「日の丸・君が代」を「一方的に押しつける教育」の問題も見えないのかもしれない。そして、大江氏が言うように、戦争責任・戦後責任を明確にしない戦後の「日本国民の総意に基く」天皇が「君が代」の「君」として「学校現場」に強制されても、それは「基礎的知識」であるとされる。国家シンボル一般であれ、「日の丸・君が代」であれ、象徴天皇制であれ、その強制は思想・良心の自由を侵害する。
 何より、私たちは、「民主的で文化的な国家」の首都で憲法をないがしろにする数々の差別発言・暴言・強制を繰り返す人間が知事に選ばれる現実であることを、確認しなければならない。その知事は当確直後、「今までと同じようにやる。」と言った。従って、私も抵抗を続けなければならないと思う。

口頭弁論[原告本人尋問] 傍聴よろしく
4/28(木)13時30分 地裁527号


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2011年4月10日日曜日

累積加重処分取消裁判を支援する会 ニュース(第26号)

証人尋問に向けて(六)
<停職判決>を第二の《ピアノ判決》にしてはならない

 3.25不当判決(加藤裁判長)は二人の停職処分に対する判決だった。停職処分に至るまでには連続不起立があり、一過性ではなく不起立行動の教育実践的意義を強く提起するものであった。この判決は、二人の「真摯な動機」を分析せず、「非違行為」の累積として悪意に満ちた決めつけをしている。

3.25不当判決(東京高裁・加藤裁判長)

 基礎的知識論:「本件各通達は、・・国旗・国歌に関する基礎的な知識を指導するため、また、卒業式、入学式などの学校行事を学習指導要領に即して適正に実施するために発せられたものと解される。」「国旗・国歌の尊重という一定の普遍性のある基礎的知識を付与することは、普通教育の性格上、むしろ必要なことというべきである。このような基礎的知識に属する事項については、反対の意見や観念がある場合であっても、一方的な一定の理論ないし観念を児童、生徒に教え込むものと評することは失当というほかない。」

児童、生徒の権利の侵害:「教員の中に国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する教員とそれらを拒否する教員とがいた場合、・・国旗・国歌を尊重する態度を学ぶことができなくなる結果を招く。・・その意味では児童、生徒の学習権又は教育を受ける権利の侵害に当たると評価せざるを得ないものである。」

停職処分:「控訴人**が、本件処分までに、卒業式における不起立という本件処分の事実と同種の非違行為について、すでに、減給(10分の1)6月、停職1月の処分を受けていること、また国旗掲揚及び国歌斉唱に抗議する積極的な行動を続け、これにより減給(10分の1)1月から3月の懲戒処分を3回受けており、その他文書による訓告も受けていることなどの考慮すべき事情を総合して判断すれば、・・停職3月としたことが、社会通念上著しく妥当性を欠き、裁量権を濫用、逸脱したものと評価することはできない」「控訴人***は、卒業式等において起立し国歌を斉唱することという校長の職務命令に全く従ったことがなく、一貫して拒否する姿勢でいることなどの考慮すべき事情を総合して判断すれば、・・停職1月としたことが、社会通念上著しく妥当性を欠き、裁量権を濫用、逸脱したものと評価することはできない」
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 この〈停職判決〉は、「真摯な動機」とか「総合して判断」等と述べながら、不起立・不斉唱者の言動を、「違和感ないし嫌悪感を生じさせる職務命令違反行為」として全く一方的に「重大な非違行為」と評価している。二人にはそれぞれ自らの行動、考えを詳細に明らかにする著書(『希望は生徒』『学校は雑木林』)もあり、思想・良心の自由、教授の自由を保持すると共に子供の学習権を保障するためにこそ強制に対して不服従を貫いてきたことは明らかである。
 下級審で事態・情況を全く転倒し都教委の意のままに判決が下され、これが最高裁で審理され停職という重い処分が妥当とされるならば、関連する多くの訴訟に重大な影響を及ぼすであろう。なんとしてもこの不当判決を逆転しなければならない。さらに現在、地裁で審理されている停職処分取消訴訟に道理を尽くし圧倒的な支援を得て、勝利していかねばならない。私も停職処分を含む累積加重処分の取消しに向けて全力をあげたい。皆様のご支援をお願い致します。口頭弁論[原告本人尋問] 傍聴よろしく

4/28(木)13時30分 地裁527号

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2011年4月5日火曜日

累積加重処分取消裁判を支援する会ニュース(第25号)

証人尋問に向けて(五)
明確にすべきは不起立・不斉唱の教育実践的意義と累積加重処分(戒告・減給・停職)の取消

 3・10高裁判決(大橋裁判長):
「日の丸・君が代」は議論の対象
「歴史的な理由から、現在でも『日の丸』及び『君が代』について、控訴人らと同様の歴史観ないし世界観又は信条を有する者は、国民の中に少なからず存在しているとみられ、控訴人らの歴史観等が、独善的なものであるとはいえない。」
「日の丸・君が代が現在でも論争的あるいは価値対立的な存在であることは肯認し得る」

起立・不起立の自由 斉唱・不斉唱の自由
「国旗・国歌法の制定過程において、政府が国会においてした答弁には、・・『それぞれ、人によって、式典等において、起立する自由もあれば、また、起立しない自由もあろうかと思うし、また、斉唱する自由もあれば、また、斉唱しない自由もあろうかと思うわけで、この法制化はそれを画一的にしようというわけではない』(野中広務官房長官の答弁)・・などがあった。」

累積加重処分の恐れ
「毎年必ず少なくとも2回は懲戒処分の機会が訪れることになり・・控訴人らはやむにやまれぬ行動であったということができるから、これを繰り返すことも考えられるため、始めは戒告という最も軽い処分であるとしても、短期間のうちに処分が累積し、より重い処分がされる結果につながることが当然に予想される。・・そのような結果を招くほどに重大な非違行為というのは、相当ではない。」

不起立・不斉唱・不伴奏は何のため 
「控訴人らの本件不起立又は本件ピアノ伴奏拒否は、・・生徒に対し正しい教育を行いたいなどという前記のとおりの内容の歴史観ないし世界観又は信条及びこれに由来する社会生活上の信念等に基づく真摯な動機によるものであり、少なくとも控訴人らにとっては、やむにやまれぬ行動であったということができる。」

 大橋判決は不起立・不斉唱・不伴奏者の言動について、入り口、動機については、その主張に理解を示している。もう一歩進めるべきは、児童・生徒との関係である。事態は卒業式・入学式等の児童・生徒の学習の場面、教員にとっては職務専念義務が課されている教授の場面で進行したことである。都教委・市教委の一律起立・斉唱・伴奏の「通達」、校長の「職務命令」は「指導」に名を借りて、処分を構えて強制される。これは「有効な職務命令」ではなく「職務命令違反があった場合、理由のいかんを問わず、適正な公務の遂行が阻害され」るというものではない。問題は教育の自由がどう侵害され、それに対し多様な考え・行動を示す不起立・不斉唱・不伴奏の積極的意義を認めることである。
 大橋判決は裁量権の逸脱、濫用として「戒告」処分を取り消したが、加藤判決(3・25不当判決)は「停職」処分を妥当とした。私の戒告・減給・停職を問いたい。

口頭弁論[原告本人尋問] 傍聴よろしく
4/28(木)13時30分 地裁527号


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