証人尋問に向けて(四)
停職処分取消訴訟(高裁・加藤裁判長)
3・25不当判決
停職処分取消訴訟(高裁・加藤裁判長)
3・25不当判決
これは、「日の丸・君が代」不起立・不斉唱により、停職1か月と停職3か月の処分を受けていた2人の処分取消請求訴訟である。一審地裁では処分妥当とする判決が出されていた。3・10高裁(大橋裁判長)では、戒告処分(一部減給)を取消す判決があり、注目されていた。
加藤裁判長は、原告・控訴人の請求を棄却し一審判決を相当とした。この不当判決の論理展開についていくつか指摘する。
1、「日の丸・君が代」の評価
判決:「日の丸・君が代が利用された面があったことは過去の歴史的事実ではある。しかし、戦後半世紀以上にわたり、憲法の精神に従った民主的で文化的な国家建設が行われ、・・現代において、皇国思想や軍国主義的又は極端な国家主義的傾向又はそのような価値観を一方的に押しつける教育は少なくとも公立学校の教育現場には存在しないと解される。」(下線は近藤)
ここで想起されるのは新教育基本法の前文冒頭の「我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家」(下線は近藤)と規定された戦後認識である。この手放しの楽観論は共通である。「日の丸・君が代」は“国破れて国体あり”の戦後・現在も国家主義の宣伝に利用されている。国旗・国歌法成立時の国会では「君が代」の「君」は天皇であるとの政府見解が示され、今日まで変更されていない。何より東京都の学校現場に「価値観を一方的に押しつける教育」の発信が都教委であることを考えれば、国、都教委、裁判所が“狼狽、奸をなす”ともいえる。
2、「日の丸・君が代」に対する一律起立・斉唱について
判決:「日の丸、君が代にかかわる歴史的事実を踏まえて主体的に対応すべきであるとの立場をとれば論争的主題ということも可能であるが、・・国旗・国歌の尊重という一定の普遍性のある基礎的知識を付与することは、普通教育の性格上、むしろ必要なことである。このような基礎的知識に属する事項については、反対の意見や観念がある場合であっても、一方的な一定の理論ないし観念を児童・生徒に教え込むものと評することは失当というほかない。」
ここには、「教育は直接の人格的接触を通じ、その個性に応じて行わなければならないという本質的要請」(旭川学テ最高裁判決)についての無理解か、意図的な無視が表れている。「論争的課題」「反対の意見や観念」があっても国家や行政の方策を強行してよいとするのである。判決は「不起立・不斉唱は子供の学習権を侵害している」とさえ述べている。
3、停職処分について
判決:「控訴人らが不起立を繰り返したものである以上、控訴人らによる職務命令違反の非違行為としての評価が量的に加重されたものとなることはやむを得ないことというべきである。・・停職が重大な不利益処分であることから最大限慎重な配慮を加えても、また控訴人**が真摯な動機の下にかかる行動に出ていることを考慮しても、なお同人について処分を加重し、停職3月としたことが、社会通念上著しく妥当性を欠き、裁量権を濫用、逸脱したものと評価することはできない」
端的に、不起立・不斉唱などの非違行為が累積しているから、処分も加重されて停職まで至るのは妥当というわけである。
そもそも、この判決を出した裁判官らは、被処分者の言動についてその背景や目的を考慮せず、非違行為を重ねる犯罪者として扱っている。例えば、「控訴人**は1か月の停職期間中、・・連日にわたり、生徒が通る校門前で1月の停職処分を受けたことにつき抗議する内容のプラカードを掲げたことが認められる。」として、“停職出勤”を曲解している。停職処分中であっても、生徒や教職員との交流をはかり、事実と自らの意思を表明し続けたことをも非違行為としている。そして「真摯な動機」の具体的な分析はなく、3・10高裁判決(大橋裁判長)とは全く逆の結論を導き出している。
石原都政と都教委の教育破壊を追及する共同の取り組みを広げよう。
小異を留保して大同につこう
口頭弁論[原告本人尋問] 傍聴よろしく
4/28(木)13時30分 地裁527号
口頭弁論[原告本人尋問] 傍聴よろしく
4/28(木)13時30分 地裁527号
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