<C>:国際儀礼(プロトコル)(都教委「準備書面(1)」への反論シリーズ③)
「起立する」は憲法、教育基本法、国旗・国歌法、学習指導要領のどこにも示されていない。そこで持ち出されたのが国際儀礼である。2008年版の学習指導要領に対する文科省「解説」では「国旗及び国歌の指導については、社会科において、『国旗及び国歌の意義並びにそれらを相互に尊重することが国際的な儀礼であることを理解させ、それらを尊重する態度を育てるよう配慮すること』としている。」と付け加えられた。やっとのことでリンクさせたが・・・。
都教委の弁: 「プロトコル(国際儀礼)でも、国旗に正対し、国歌演奏するにあたっては自国他国を問わず、起立することが国際的な慣習であることが示されており、そうした常識を教えるために行う指導である。」(P19)
都教委が取り上げる外務省外務報道官編集『やさしい国際儀礼』さらには『国際儀礼に関する12章』では、首脳会談やレセプションでの「国際的な慣例」「起立と注視が原則」とされているに過ぎない。都教委は、起立・斉唱が「慣習」「常識」「予定するところ」と繰り返しているが、学校教育の場での一律起立・斉唱は決して国際的な常識ではない。ましてや懲戒処分を構えた強制は、日本国東京都教委の「特異技」に過ぎない。国際的にはあちこちで非難と嘲笑の対象になっているらしい。
そもそも、国際儀礼(を学ぶ)と強制ほど相反するものはない。外国人児童・生徒にとっては違和感と共に日本国に対する一層の嫌悪を誘引する可能性がある。思想、良心、信仰から「日の丸・君が代」を拒否する者、国家忠誠表明を拒否する者にとっては苦痛でしかないであろう。
国際儀礼は、自国の国旗や国歌への自由で寛容ある対応によってこそ醸成されるものである。われわれが国際的に儀礼を払われるには何が必要なのだろうか。戦後65年になってもまともな戦争責任を果たさない日本国と日本人に、謝罪と賠償を要求する戦争被害者が共通して望んでいるのは「再び残虐な侵略行為を繰り返さないための日本の次世代への教育」である。
もしも、多くの戦争被害者にとって悪夢を呼び起こすであろう「日の丸・君が代」の強制を、日本の教職員が受忍するようなことがあったらそれこそ国際的信用を失う。都教委は「日の丸・君が代」が変わったというのだが・・。
この点は次回に展開する。
ニュースへのリンク