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2011年6月27日月曜日

累積加重処分取消裁判を支援する会ニュース(第43号)

論点、争点、キーポイント(結審に向けて 14) 
再び最高裁「慣例・所作」論を評す

 前号(第42号「慣例・所作」ではなく「命令・追従」)でもとりあげたが、この論が「日の丸・君が代」問題を超えて影響を及ぼしているので再論する。最高裁判決の「慣例・所作」論には3つの特徴がある。列挙して述べる。
 まず、学校教育における象徴天皇制国家思想の総動員を容認したことである。2007年のピアノ判決を打破して全教職員に対して忠誠誓約行為を強制した「10・23通達」「職務命令」を19条合憲とした。国旗国歌法の成立に伴う「君が代」の政府見解、2006教育基本法の「教育の目標 第二条 五」で示された<象徴天皇制―伝統・文化の尊重、我が国・郷土を愛する―国際貢献>が、これから全面展開されるだろう。
 第二に、行政の意向に反する者に対する排除の論理である。「敬意の表明」を受け入れられない者にとっては「間接の制約」となるが、「秩序の確保」や「円滑な進行」のためには職務命令は容認されるとした。そこで懲戒処分や再雇用拒否は当然とされた。権力に“棹をささない”教職員は排除されるだろう。
 第三に、「慣例・所作」論は教育の自由への展開を遮断したことである。裁判官の間では“公的機関が一定の価値観を強制することは許されない”という「信条」への制約も提起されたようだがこれも「思想及び良心の自由の外縁」とされた。また、個々の「反対意見」「補足意見」では、学校現場への影響を憂慮しているものもあるが、憲法23・26条、教育基本法(不当な支配)への展開は示していない。逆に「受付を担当させる等、会場の外における役割」(宮川「反対意見」)を提案している。上記で述べた通りこの問題は、教育内容への全面的な強制であり何人かの教職員が場外に退場して済むものではない。教育の自由侵害を無視する思考である。

当面する教科書採択への影響

 最高裁判決が大阪をはじめとする「日の丸・君が代」問題に直接影響を及ぼすことは言うまでもない。同時に「つくる会」系教科書の採択の動きがある。東近江市議会では「教育基本法・学習指導要領の目標を達成するため、最も適した教科書の採択を求める決議」が行われた。その根拠として、「公共の精神を貴び、国家・社会の形成に参画する国民」「我が国の伝統と文化を基盤として国際社会を生きる日本人」「豊かな情操と道徳心、伝統文化の尊重や我が国を愛する」が挙げられている。象徴天皇制国家思想が儀式だけではなく、教科学習にも取り入れられようとしている。これはもちろん個々の教員の思想・良心の問題ではなく、教育の内容をめぐる教育の自由の問題である。

報  道

●南葛飾高校(定)木川さん再任用採用拒否事件・最高裁判決
 7月4日(月)
  14時 最高裁南門集合
  15時 判決言い渡し(第2小法廷)

●板橋高校藤田裁判・最高裁判決
 7月7日(木)
  14時 最高裁南門集合
  15時 判決言い渡し(第1小法廷)

次回口頭弁論(結審)7/11(月)13:30~ 527号 
最終準備書面の提出・原告本人の最終陳述 傍聴よろしく


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2011年6月24日金曜日

累積加重処分取消裁判を支援する会ニュース(第42号)

論点、争点、キーポイント(結審に向けて 13) 

卒・入学式は、不当な支配・教育の自由破壊の対決点
~「慣例・所作」ではなく「命令・教化」~

 6/21,最高裁第三小法廷は広島・君が代処分取消訴訟で4回目の不当判決を下した。またしても職務命令は「慣例上の儀礼的な所作」のため思想良心の自由を直接に侵害しない、「敬意の表明」を強制することによる「間接の制約」も「秩序の確保」「円滑な進行」のためには容認される、という。これは一体何を意味しているか。
 かつてピアノ判決以来、都教委と下級裁判所は、一律起立・斉唱は「国際儀礼」であり「一般的・客観的」に見て侵害にあたらない、内心と分離してこの外部行為を行うのは当然とした。判決によっては不起立・不斉唱を「学習権の侵害」とした。「国際儀礼」の強制はまさに国際的実態からも破綻した。内心と外部行為の分離は人間の思想と行動の不可分性からも非現実的であることが明らかとなった。そして行き着いたのは日本的「正攻法」である。国旗国歌法は「慣習を成文化」したもの、2006教育基本法の「伝統と文化を尊重し、それをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」態度、そして象徴天皇制国家が被されば完成する。日本国政府の公式見解(1999年以来)は“「君が代」の君は天皇であり、「君が代」は我が国、歌詞は我が国の末永い繁栄と平和を祈念したもの”としている。“日本人なら、公務員教職員なら「慣例上の儀礼的な所作」をしろ!”不起立・不斉唱・不伴奏者は「秩序」を破壊し「円滑な進行」を妨げる者とされる。それを予防した職務命令は合憲というわけである。
 卒業式、入学式等は不当な支配・介入、教育の自由をめぐる激しい衝突の場である。「10・23通達」「職務命令」が果たしている役割は「慣例・所作」ではなく「命令・教化」であり、「敬意の表明」にとどまらず「象徴天皇制国家への忠誠誓約」である。これが私たちの教授の自由を抑圧し、児童・生徒の学習の自由を侵害していることは明らかである。最高裁小法廷がいかに19条で枠をはめようとも、学校現場の実態を反映した23条・26条・教育基本法での闘いはこれからだ。着実に主張を展開していきたい。開けない梅雨はないだろう。

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2011年6月21日火曜日

累積加重処分取消裁判を支援する会ニュース(第41号)

論点、争点、キーポイント(結審に向けて 12) 
自由は見えないけれど・・・

 自由は見えないけれど、“不起立・不斉唱・不伴奏を含む多様な取組”は見えるものです。私たち不起立・不斉唱・不伴奏者は、ならわし・しきたり(慣例)を解さないヤボな人間でしょうか。いいえ、強制に抗して一人でも何とか決起し自由の歌声をあげる者です。私たち不起立・不斉唱・不伴奏者は、たちい・ふるまい(所作)ができないダサイ人間でしょうか。いいえ、権力の意向に“棹をささない”ささやかな誇りをもつ者です。
 私たちは、強制(一律起立・斉唱)、抵抗、処分、弾圧(再防研修・強制異動・差別)の実態を児童・生徒・世間に分かるように示さなければなりません。自由とその置かれている情況を語らなければなりません。21世紀現代東京公立学校の教職員・児童・生徒はいかなる思想良心、信仰をもっているかにかかわらず、直接に侵害されたのは教授の自由であり、間接に制約されたのは学習の自由です。原発事故によって、今日、空気や水や土さえもタダではないことを知らされました。そう、自由もタダではなく、代償が必要です。
 都教委は“強制などしていない”と白を切り、最高裁は私たちを思いこみの激しい“ドンキホーテ型”に仕立て上げたのです。かくして、草の根の呻吟は、今や巨大な流れの中で闇から闇に葬られようとしています。
 流れといえば、梅雨に菖蒲、菖蒲の花の流れは霧雨にも輝いてどこまでも続いていました。一つ一つの菖蒲は花も葉もそれこそ世界に一つだけでした。そして、真っ白い菖蒲の花は、優雅に肩の力を抜いていました。

報道
*入学式や卒業式で君が代斉唱の際に起立しなかったとして、広島県教育委員会から戒告処分を受けた県内の高校教諭ら42人が、学校側の起立斉唱命令は憲法違反として県教委に処分の取り消しを 求めた訴訟の上告審で、最高裁第3小法廷(大谷剛彦裁判長)は、 判決を21日に言い渡すことを決めた。
*板橋高校卒業式裁判で、最高裁第1小法廷(桜井龍子裁判長)は、口頭弁論を開かないまま、判決期日を7月7日(水)午後3時に指定してきました。

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2011年6月19日日曜日

累積加重処分取消裁判を支援する会ニュース(第40号)

論点、争点、キーポイント(結審に向けて 11) 
場外、校外、国外への追放に反対する

 橋下大阪府知事はジャカルタで言う。「日本には国歌を起立して歌わない先生がいる。クビにしようと考えているが、日本で大変な問題になっている。」
 上田埼玉県知事は記者会見で言う。「自分たちの国歌や国旗を愛せないような教師だったら、日本国の教師にならずに中国かどこかの教師になればいい。」
 いよいよ始まった「日の丸・君が代」強制のドミノ。二人の知事の排除の論理は、抵抗する教職員を児童・生徒から引き離すことをねらっている。そして、教授の自由も学習の自由も根こそぎ否定し、最終的には教職員の身分を奪うものである。

場外退避は思想・良心の自由を守れるか

 儀式が行われている間、場外に出て「不起立不斉唱行為を回避させる」(第一小法廷・宮川「反対意見」)という。これは有効か。これも結局、児童・生徒から教職員を引き離し「直接の人格的接触」をさせないことである。何のメッセージも送れないことになってしまう。仮に処分を免れたとしてもそれで思想・良心の自由が保持されるのか。学校教育の儀式における強制に対しては、教育の自由を追求することを通してしか思想・良心の自由も保持できないと思う。
 また、宮川「反対意見」は、「不起立不斉唱行為が上告人の思想及び良心の核心と少なくとも直接に関連する真摯なものであるかについて・・審査が行われる必要がある。」(判決文P15)としている。「不起立不斉唱行為」を決意実行した「思想及び良心の核心」はそれぞれの行為者によって異なる。「反戦思想」であったり、「国民主権」であったり。共通するのは職務との関係であり、宮川裁判官が言う「真摯性に関する審査」をするならば、職務遂行=教育実践の視点から行われなければならない。
 教職員を学校現場から排除し場外、校外、国外へ追いやることは究極の排外主義である。その出発が、教育の自由への乱暴な破壊である。学校現場からの逃亡にも、排除にも反対する。
 (報道によると、板橋高校卒業式藤田事件の最高裁判決が7/7に予定されている。)

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2011年6月16日木曜日

累積加重処分取消裁判を支援する会ニュース(第39号)

論点、争点、キーポイント(結審に向けて 10) 
最高裁 三度不当判決(第三小法廷、職務命令は合憲)

 本日(6/14)、戒告処分取消を求めて上告していた都教組八王子支部関係3人に対して、最高裁第三小法廷は、職務命令が憲法19条思想良心の自由の侵害にはあたらない、「間接的な制約」についても「秩序確保」「円滑進行」のためには許容されるとした。26条などの教育の自由の点については一顧だにしなかった。
 これで、3つの小法廷全てが、「10・23通達」下の職務命令は19条に違反しないという判決を出したことになる。しかも「間接的な制約も許容される」として、ピアノ判決(2007)とは異なり全教職員対象(一律起立・斉唱)を意識した判決を確定した。
 教育の自由(23・26条)、不当な支配の禁止の鍵をこじ開けなければならない。そのキーポイントは“不起立・不斉唱・不伴奏の教育的意味”である。最高裁多数は<思想・良心から起立・斉唱できなかった>を退けたが、「間接的な制約」の前提である「敬意の表明の要素」に対する「敬意の表明の拒否」の存在を認めた。この「拒否」には児童・生徒に対する教育的意味も含まれていると思う。
 また、「学校の卒業式のような式典において一律に行動を強制されるべきではないという信条」(第二小法廷判決)や「公的機関が一定の価値観を強制することは許されないとの信条」(第三小法廷・田原「反対意見」)のような「信条との関係における制約」は、本来教育の自由の側面から検討されるべきものである。特別活動の儀式的行事という教育課程の中で強制が行われたのである。それによって教授の自由と学習の自由が圧迫、侵害されたことは明らかであろう。追及の余地はある。

一・二審で陣地を獲得することの重要性

 最高裁は、“思想・良心の自由の枠”をがっちり守って「慣例上の儀礼的な所作により直接的な侵害なし」「間接の制約も容認される」とした。教育の自由については「上告申し立て」を受け付けていない。憲法19条・20条について主張を続けることはもちろん重要。しかし、当面特に力点を置かなければならないのは、23条・26条、不当な支配の禁止である。それは一律起立・斉唱の強制下で児童・生徒にどう向きあうかを明確に主張することである。
 3・10高裁判決は「10・23通達」による職務命令が思想・良心の自由を侵害しないとしながらも「正しい教育をしたいという思い」「真摯な動機」「やむにやまれぬ行為」をすくい上げ処分を取り消した。注目すべきは、この高裁判決のポイント部分である原告の教育に関わる主張は地裁中西判決が確定していたところであり、大橋判決でも引用されている。つまりは積み上げである。いかに否定的な要素があろうとも一つ一つ真実を述べていくことである。地裁・高裁での前進によって最高裁も、最低限教育の自リンク由について取り上げざるをえないところにもっていきたい。その可能性はまだ残されていると思う。当面、地裁での前進のために全力をあげたい。

次回口頭弁論(結審)7/11(月)13:30~ 527号 
最終準備書面の提出・原告本人の最終陳述

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2011年6月7日火曜日

累積加重処分取消裁判を支援する会 ニュース(第38号)

論点、争点、キーポイント(結審に向けて 9) 

思想・良心の自由(憲法19条)の枠を突破しよう
~最高裁5/30第二小法廷・6/6第一小法廷 不当判決批判~



両小法廷、職務命令合憲判断

 どうやら見えてきた。最高裁は、少なくとも各小法廷において「日の丸・君が代」訴訟を思想・良心の自由問題の枠に押し込め「10・23通達」下の職務命令は憲法19条違反にならないという多数意見判決を出すようだ。上図に示したように、両判決とも職務命令による起立斉唱行為は「一般的、客観的に見て」「慣例上の儀礼的な所作」であり「直ちに制約する」(直接の侵害)ものではない。「間接的な制約」は認められるが、外部行為(不起立・不斉唱)の制限は「秩序を確保」し「円滑な進行」ためには間接的な制約を許容し得る程度である。なお、第二小法廷は「信条の制約」も「間接的な制約の有無に包摂される」として許容されるとする。全く不当な判決である。

教育の自由、判断せず

 ただ根本的な問題は、上図にもあるように中枠の左右を分離し、右枠の「儀式」の場面での思想・良心の自由問題だけを検討対象としていることである。卒業式・入学式・周年行事などは授業をはじめとする教科指導、生活指導と一体のものである。まして、「日の丸・君が代」という厳しい対立をはらんだ問題、児童・生徒・教職員の全人格の成長・形成をかけた学習の自由、教授の自由の課題が突出するのが「儀式的行事」である。判決も「儀式的行事」を「生徒等への配慮を含め、教育上の行事にふさわしい」ものとする必要を述べながら、この場面での「直接の人格的接触を通じて個性ある成長をはかる」ことを忘れ、ひたすら全体の「秩序」「円滑」を主張するのみ。壮大な誤認が生じている。19条では包摂できないのである。

金築「補足意見」

 第一小法廷判決では金築「補足意見」と宮川「反対意見」が提示された。前者は「本人の主観的判断」とか「教職員であって、・・職務命令に従って学校行事を含む教育活動に従事する義務を負っている者」として、不当にも、強制を容認し職務命令の合憲性を述べている。一方で「児童・生徒に対し・・起立斉唱行為を強制」したり「教育環境の悪化を招くなどした場合」への警告を示しているが、事実上それが現実であることの認識はない。

宮川「反対意見」とその限界

 後者「反対意見」は明快だ。起立斉唱の強制が「少数者の思想・良心の核心に対する侵害」「魂というべき教育上の信念を否定することになる」として「10・23通達」が「信念を有する教職員を念頭に置き・・不利益処分をもってその歴史観等に反する行為を強制する」、職務命令が「信念に対し否定的評価をしている」として諸事情の検討も含め原審に差し戻すことを主張している。少数者を狙い撃ちにするようなことは許されないという全く当然の見解である。
 ところが上図にもあるように、宮川裁判官は「式典」を「生徒に対し直接に教育するという場を離れた場面」としている。そのため、「不起立不斉唱行為が上告人らの思想及び良心の核心と少なくとも密接に関連する真摯なもの」であることは「おおむね疑問はない」としながら、その教育実践的意味、不起立不斉唱行為が生徒に与える積極的な意義については思い及ばない。不起立不斉唱を実行した教員に対し、生徒が“やっぱり先生は私達に言ってきたことを貫いたんだね”と評価したり、保護者から励まされることは教育的社会的意味をなさないだろうか。逆に心ならずも強制に従った時の教育的良心へのダメージは計り知れない。宮川「反対意見」は具体的に「受付を担当させる等、会場の外における役割を与え、不起立不斉唱行為を回避させること」を提示している。確かに形式的にはその教員に対する直接の思想・良心の侵害を回避し処分を免れるかもしれないが、会場内では、粛々と強制が貫徹進行するのである。このような措置は、教員を生徒との「直接の人格的接触」の場から引き離し、排除することにもつながるのである。「式典」「ピアノ伴奏」もまた全体として児童・生徒への直接指導の場面である。
 第一小法廷は、教育の自由(23・26条)については取り上げない判断を下したという。しかし、「日の丸・君が代」強制問題を全面的に検討し、憲法判断を勝ち取るにはこの点は抜かせない。私たちはプライベイトタイムにサッカー場で強制されたのではなく、教育公務員のまま職務専念義務が科されている校務遂行中にその校務の内容において強制されたのである。どんなに狭められた教授の自由でも、児童・生徒に正対した時その自由を発揮しなければならないと思う。私は“不起立・不斉唱を生徒に見せる”意味を裁判官に伝えたい。自由に考え行動すべし。自由はタダではないけれど。

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結審、迫る

前回口頭弁論(校長と近藤の証人尋問)の速記録が届いた。いくつか補足すべきところはあるが、基本的には主張を展開できているようだ。結審に向けて最終準備書面の作成に入りたい。

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2011年6月1日水曜日

累積加重処分取消裁判を支援する会 ニュース(第37号)

論点、争点、キーポイント(結審に向けて 8)

“「10・23通達」下の職務命令は憲法19条違反にあらず”
最高裁第二小法廷 不当判決

 まず留意しなければならないのは、「上告理由書」によると上告人は憲法19・14・22条を争点とし、教育の自由(23・26条)の憲法判断を求めていないことである。従って判決は、主に職務命令が19条思想・良心の自由に違反するかどうかについて検討し、違反しないと判決した。
 判決文の特徴は全33ページ中、「全員一致の意見」部分は8ページ余りで、その後は3人の裁判官それぞれの「補足意見」が延々と続くことである。その中心的論点は「間接的な制約」である。
 判決はまず「起立斉唱行為は、一般的、客観的に見て・・慣例上の儀礼的な所作」であり「個人の思想及び良心の自由を直ちに制約するものと認めることはできない」とする。ここまでは「ピアノ判決」の枠内であるが、ここで持ち出したのが「間接的な制約」である。上告人の「起立斉唱を拒否する理由」に理解を示すポーズをとりながら結局「儀式的行事においては、生徒等への配慮を含め、教育上の行事にふさわしい秩序を確保して式典の円滑な進行を図る」ための職務命令として「間接的な制約」も許容し得るとしている。重要なことは教育の自由を侵害している一律起立・斉唱の職務命令を「教育上の行事にふさわしい」等と決めつけていることである。
 その後の3人の「補足意見」は言いたい放題である。「生徒の模範となるべき教員としての職務に抵触」(竹内)、「率先垂範的立場にある教員に日常の意識の中で自国のことに注意を向ける契機を与える行為を行わしめる」(須藤)、「起立斉唱行為の教育現場における意義等は十分に認められる」(千葉)。特に須藤「補足意見」は国家主義を高唱すると同時に「見るべき代替案あるいは拮抗する対案が提唱されていることもうかがわれない」とか「起立斉唱の形式、内容、進行方法、所要時間、頻度等を見ても、・・短時間で終了し、日を置かず反復されるようなものでもなく」等、リンク事実に反することが勝手に述べられている。私は、「式次第から『国歌斉唱』を削除すること」を提案してきたし、「日の丸」は式の間中掲揚され、また一律起立・斉唱の強制・累積加重処分は毎年のことであり、そもそもこの強制は教育全体の統制と固くリンクされている。
 「全員一致の意見」は、基本的には“より厳密に検討した結果、職務命令は合憲であること”を打ち出し、「補足意見」は都教委を牽制している面はあるが、「間接的な制約」をも許容し職務命令合憲を補強している。
 今後、まだ憲法判断が出されていない教育の自由(23・26条)への主張を強化したい。

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